まさか私と関連の深いガイドに聖パウロがいるとは。
全く気づきませんでした。私はクリスチャンではないし、ローマ教会にも全く興味ないし。
瞑想のなかでまるでレオナルド・ダ・ヴィンチのような髭のお爺さんが出てきたのですが、ダ・ヴィンチではなく、でも誰なのかはわからず…。直感的にイエス様と繋がりが強い方だとは感じました。
聖パウロと言われても、イエス様は好きだし自分の魂ルーツが東洋より西洋が長いというものわかるのですが、歴史としてのキリスト教とか聖書の世界にはそこまで関心がないのです。
ですが自分がそのような方と魂で繋がってサポートを送られていることは光栄であると感じました。
自分のスピリチュアルな道のりのサポートをしてくださっているのですから。
かつてのスピリチュアルは命を懸けて取り組んでいくものだったと思います。仏陀も厳しい修行の果てに悟りを開いて中庸にいったのだし、イエスもパウロも死を恐れずにスピリチュアルであることを貫きました。
私個人は、殉教者への憧れというものはありません。
年齢を重ねて極端性の持つ危険さも、よくわかっているつもりです。
同時に真摯な人は人間として好きだし、一点突破していくタイプの人はもともと好きだったりします。
マーティン先生が「イエスやパウロをキリスト教の枠組みのなかでとらえなくてもいいんだよ。イエスはキリスト教徒じゃないし、仏陀は仏教徒じゃないのだから」と言っていたのですが、
私も何かとてもフラットな気持ちで、イエスやパウロのような人を捉えたい‥そのような気持ちでいました。
「(はじめから)目覚めた人」と、「彼(イエス)のことを最初は否定していたが、その後回心し彼のことを伝えることに生涯を捧げた人」として。
そうしたなかで、私は一人の女性とメールでやりとりをしていました。マーティン先生を通して知り合ったパリ在住の日本人女性、Yokoさんです。
私と彼女は、実は並ならぬスピリチュアルなつながりがあります。
彼女とキリスト教のことや自分の過去のスピリチュアルな学びについてやりとりしているなかで、エッセネ派の話が出てきたのです。
(画像はニコライ・リョーリフの「And We Do Not Fear」)