完璧な幸せは不自然

年末年始、精神科医の斎藤学さんの本を読んでいてとても感じたことです。斎藤さんの本には様々な依存症(アディクション)や機能不全家族と呼ばれるような家族の問題、心を病んだ人達が出てきます。

 

そして本を読んでいると、わかりやすく酷い親のもとに生まれた子供だけが荒れたり依存症になったり心を病んだりするわけではなく、近所の人達からは「理想的な家族」と思われている家族であっても、実は子供の家庭内暴力に苦しんでいることがある。その果てに親が我が子に手をかけることもある…そういうケースもあることに改めて気づかされます。

 

そして読み進めるうちにだんだんわかってくるのです。そもそも私達人間は間違いだらけのエゴのかたまり。そんな私達が「完璧な幸せ」「決して間違わない健全さ」「良い父」「良い母」「良い子供」などを目指しても、必ずひずみが出てきてうまくいかないのだと。

 

型にはめられるには私達の自我はあまりに強く、また、あまりに傷ついていることもあり、そこを穏やかにしていくには静謐な場所に閉じ込めるより、いろんなことをカオスのように体験していく必要もあるのだと。

 

斎藤さんは「この社会で何にも依存せず健全にきれいに生きれるほうがおかしいくらいで、依存症になったり、登校拒否になったりするのは、寧ろ正常な反応かも知れない。そしてどんな依存症もその人が生き延びるために行ったのだ」とよく語っていらっしゃいます。

 

斎藤さんの本を読むと、「正しさ」という抑圧で私達にはひずみが起こるのだと思います。世の中があまりにも「正しく」「幸せ」であれと私達にプレッシャーをかけ過ぎているのかも知れません。

 

そうしたなかで行き場のない怒りだったり、寂しさだったり、どうしたらいいのかわからなくて、それが暴力(自分自身に向けられることもある)や依存症という形で出てくる。

 

スピリチュアルも抑圧になることは多々ありますよね。

「許す」だけでなく、正しいという「ジャッジをしない正しさ」を目指すような修行の側面があり、また、お金があって、素晴らしいパートナーがいて‥みたいな、物質的な幸せを追い求める(そうなることが波動が上がった証拠、みたいな)側面も強いと思います。

スピリチュアルをやっていると、だんだん苦しくなってきませんか!? それは結局は、スピリチュアルも不完全な人間が作りあげ、追い求めているものだから。

 

勿論私はスピリチュアルに多大に感謝をしており、これからも自分のできる形で最大級のリスペクトと貢献をしていきたいと思っています。

 

その前に、「不完全な自分が健全なのだ」と心から思っている人はどのくらいいるのでしょうか!?

人生というカオスのなかで怒ったり寂しがったり隠し事を持ったりしてこそ、人間として健全。

家族に問題があっていい。自分自身にも問題があっていい。

 

スピリチュアルだけでなく何をやるにせよ、まずそう認めてあげることは、自分という人間の土台に大きな栄養を与えてあげることになる。残念ながら外界ではまず期待できないこの受容を、自分自身が忘れることなく積極的に行う必要があるのだなと、あらためて思うのです。



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